On The Balcony, 2/2

日光がよく当たるバルコニーへ移動した。《往来、なけなし》(2007)の制作時に試作して余っていた支持体を床に置く(漆喰、木材、600mm×900mm、漆喰を塗った木板全体を薄い絹布で包んである)。しつらえとしての底面に日光がゆるく吸収されて、虫干しの舞台にもちょうど合うのではないかと何気なく粋を装った。その支持体の中心に桜の材でできた木工家具職人K氏お手製のお盆を台座として載せる。どこかに厳かさを求めて儀式化したかったのかもしれない。そのお盆の上で一枚一枚絵を開いて折り返しながら、日光に当て過ぎて傷めないよう慎重に干していった。男がバルコニーで姿勢を正しながら一連の所作を適度な間でこなしていく様子は、次々と訪れる見えない客人をもてなしているか、あるいはどうしても上手にできない落語の一部分の練習を延々と繰り返しているか……、外から見れば滑稽に見えていただろう。

やがて南中を過ぎた太陽がバルコニーに直射日光を浴びせた。光が柵に当たって絵の上に斜線が走る。その時、ふと時間が止まったように見えた。影が絵とお盆と支持体を射止めて固定していたようにも見えるし、影そのものが仮設としてのしつらえを完成させる万能なパーツのようにも見えた。未来を視るために作成したドローイングは、その完成した図像をもって”私的な”役目を果たしてはいたが、来たるべき機能的な進展/補完を叶えるためのタスクを制して眠っていたのか、と半ば盲目的に感心しつつ、バルコニーでひとり心を奪われていた……。一編の詩が降ってきた。

この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐へかね
琴はしづかに鳴りいだすだらう

 (八木重吉「素朴な琴」『貧しき信徒』より)

幼い頃から名詩として記憶していた八木重吉の四行詩に思いを馳せる。そして、この制作を構成する出来事とイメージを振り返る。それは、絵は死なないということも、失った月日やお金や幸せが苦しさにもたれて身を潜めていることも、その日暮らしのなかで豊かさを脚色する精神性も、この時間は日が傾けば終わることも、無名の営みについても、無題の個別の魂についても、それぞれ全てをまっとうに理解する間も器量もなく、ただここで静かに鳴る音に耳を傾けていたいと思った。ただ、目の前の影は太陽の軌道と気象により移ろいゆくものであるし、風の一つでも吹けばこの出来事は一瞬でひっくり返ってしまう。であれば、一時の遠吠えとして、名前を呼んでみようと考えた。この出来事を終える祝詞としての名前を、太い影の絃にふれて、中空の胴にヴィジョンを詰めて、めいっぱい、うんと言葉を奏でよう。そう思ってひとつひとつの絵に言葉をのせることにした。音色のように絵の言葉を読むことができるだろうか。聴こえるだろうか。

補記:ヒヤシンス、エポニム、名付けへの関心を別の制作で展開させようとしていたのが2019年5月。その一年前、2018年5月には、「もう(見頃が)終わったね」と開花のピークを過ぎたハクモクレンの木の前でささやいていた観光客の声を聞いて、この制作が始まった。

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