《通過せよ》

2021年2月。感染症の流行が札幌で拡大しはじめてから1年経ったころ、わたしは北海道を後にした。この国の自助・共助・公助の連携の歪みを多くの国民が把握し始めたころのことだ。退職後に引っ越し業者へ荷物を託し、自主隔離期間を設けた。自治体が行う緊急支援制度の対象からも外れていたため必死だったように思う。隔離期間を終え、人通りの少ない路地を歩いていた時、飛行機雲を見かけた。札幌から青森へ向かう軌道では空ばかり見ていた。「北海道から実家に近づくにつれて、空にピントを合わせる速さが増している。帰郷とはそういうものなのだろう。(午後5:51 2021年2月28日)」その時の心情をtwitterアカウントにそう書き残している。

自宅で介護・介助の労働や家事労働に翻弄されつつ、屋外から響く音に耳を澄ます瞬間がある。野生動物の遠吠えや鳥類のさえずり、数km先の高速道路の流れや飛行機の轟音といった幅広い音が(気象条件に左右されるが)聞こえやすい。鼓膜を揺らした音に呼応するようにその姿を探し、焦点を合わせる。姿が見えなくなるまで眺めている。そうしていると、ここに立つわたしや横になっている両親の動けなさ、動かなさに胸がしめつけられてしまう。帰郷後しばらくはその感情に支配されていたように思うが、消え去るものでもないのだろう。

横になっている家族にそれぞれ夕日が射す時刻、東窓の傍に1羽の鳥のシルエットが浮かんだ。写真を撮ってその画像を父に見せた。父は鳥の名前をよく知っている。わたしは知らないばかりかまったく覚えられない。人間よりも鳥とよく交信していたようなひとであるから、この鳥のことも知っているのだろうと思った。しばらく悩んで「ヒヨドリ」と教えてくれた。――この日からわたしは、屋外の出来事をカメラで撮影して父に見せるようになった。父が動けないかわりに、目に、手に、足になろう。そう決めたのだ。

毎年のように軒先に巣を作る鳥がいる。やってくる鳥は皆、人間の営みを巧みに利用して外敵から身を守るための領域をこしらえる。ここから命の移ろいを想像し観察すること。旅立つ前に死んだ鳥を庭に葬ること。絆や自由といった意思の元に抑圧をコントロールする考え方ではなく、定点から思考し、歓迎し、実践することが必要になる。

 おまへのゐない
 おまへの起點
 おまへのゐない
 おまへの終點

渡鳥が旅立ち、飛行機雲が空に浮かばなくなった頃、村次郎の詩を読み返した。「飛行機雲」[1]の4行詩を声に出して読む。わたしが村次郎の存在を知り関心を寄せるようになったきっかけは、青森県の地方紙、東奥日報に掲載されていた「ふるさと南部ちょっとdeepに」というコラムの中で、柾谷伸夫さん(八戸市公民館館長)が村次郎について詳しく書かれていた記事を、帰郷を決意した後に読んだからであるが、けっして多くはない資料を調べるうちに深く惹かれるようになった。八戸・鮫に生まれた詩人が家業を継ぐために帰郷し、その帰郷が文学者としての自己と対峙する境目となっていたことも、歩くことに対する誠実さも、気候へたむける言葉の数々も、風をなぞるように描かれる一遍の詩も、わたしには耐えられないほどの輝きを放っていた。

移ろうものを見上げる時わたしはやさしくなりたい。そう思うばかりの時を今もこの地で刻み続けている。



参考図書[1]村次郎選詩集、菅啓次郎選『もう一人の吾行くごとし秋の風』(左右社、2018)
※「横たわろう、通過せよ」Paper(2022年)所収。「いま、めくるめく流れは出会って」国際芸術センター青森(2024年)出品に際し一部改編した。